音楽翻訳担当の池上秀夫です。
新型コロナ感染症(COVID-19)は、なかなか収束の兆しが見えません。日常生活のレベルでも制約されることが多く、ストレスを抱えている人も多いと思います。わたしは天気のいい日には、早朝のうちに近所の公園にウォーキングに行くことが多いのですが、そこでも以前に比べると人も減り、ソーシャル・ディスタンス(英語ではSocial Distancing)を保ちながらの運動を強いられます。
そんな不自由もありますが、その公園は多摩地区の昔の雑木林を再現したエリアがあって樹木が多く、鳥も多く見られることが気持ちの癒しにもなっています。木々が風になびく音や鳥たちのさえずりという「サウンドスケープ(Soundscape)」の効果を実感しています。
「サウンドスケープ」と言う概念は比較的新しいもの、カナダの現代音楽の作曲家、レイモンド・マリー・シェーファー(Raymond Murray Schafer, 1933-)が1960代末ごろに提唱したものです。「音=sound」と「風景=landscape」からなる、「音の風景」という意味の造語です。サウンドスケープという概念は、突然生まれたものではありません。ジョン・ケージ(John Cage, 1912 - 1992)の『4分33秒』などの作品に顕著に表れているように、60年代の現代音楽の世界では、西洋音楽の世界でそれまで当然と思われてきた「楽器以外の音を雑音=noizeと認識し、コンサート・ホールの中で雑音を極力排除した状況で演奏する」という様式自体に疑問が投げかけられました。そのような動きの中で、環境から切り離して客観的に音を扱おうとしていたそれまでの聞き方を変え、人びとの生活の中や環境の中にある音を風景としてとらえなおそうという発想から、サウンドスケープという概念が生まれました。
サウンドスケープという概念は、西洋よりも日本の社会では受け入れやすいものではないかと個人的には考えています。日本庭園に見られる鹿威しや水琴窟、そして風鈴(最近は減りましたが)など、日本人は昔から自然の力を利用した音を「風景」として楽しむ文化を持っています。セミの鳴き声なども、日本人と欧米の人とでは、処理する脳の部位が異なり、欧米の人たちはあれは「雑音」として処理している、という話を読んだこともあります。
サウンドスケープが対象とするのは、自然の環境音だけではありません。日常生活の中の、市場での賑わいや工場の機械の音などもサウンドスケープです。人が身を置く環境の中のすべての音がその対象になるわけです。
このようなサウンドスケープですから、狭義の「音楽」というものから逸脱するのも不思議はありません。日本ではまだ少ないですが、都市設計(Urban design)の一部として音環境を考えるという場面などにサウンドスケープ論の分野で蓄積された知見が応用されることも増えています。
日本の音環境というと、前述の鹿威しや風鈴、またさお竹売りの声など、ノスタルジーをもって語られることも多くあります。一方で、特に都市部では過剰とも思えるほど音が氾濫し、音環境はむしろ悪くなっているのではないか、と感じることも少なくありません。日本の都市デザインの場でも、もっと音環境への配慮も増えてくれたらと思います。
サウンドスケープというところから話は少しそれますが、この一年で個人的に興味深かったのが、野球や大相撲の中継でした。無観客や入場者数を制限し、声を出しての応援が禁じられたことで、今までほとんど聞こえなかった、投球や打撃の瞬間に出る音や声、相撲の立ち合いの時の声などが聞こえるようになり、これまでとは違う見方ができたのではないか、と感じています。もちろんスポーツは大勢の観客の中で盛り上がるのが何より楽しいものなので、そこは早く元に戻ってほしいとは思いますが、あれはあれで興味深い経験ができたと思います。
移動が制限されてストレスを感じやすい今の状況ですが、こういう状況だからこそ、これまでと環境が変化したことで聞こえてくる音に耳を傾けてみるのも、いいかもしれません。
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